こんにちは。お城探検家西野愼祐です。
日本各地に存在するお城のはじまりについてお話します。
よくテレビでは、日本で一番古いお城は、愛知県の犬山城と話しています。
しかしこれは今、見る事ができる天守閣(現存天守)があるお城であり、古代からあるものではありません。
では、「お城」と言われるものは、いつ頃からあったのでしょうか?
日本でお城の原型と言われているのが『環壕集落』という形態の 集落 です。
では、この『環壕集落』とはどんなものなのでしょうか?
諸説ありますが、世界中の研究者が注目するほど、長く平和な時代が軽く10.000年以上続いた縄文時代(諸説あります)に、大陸(中国)から朝鮮半島を経て日本に稲作が伝わりました。
それと同時に青銅器や土器を作る加工する技術、集落の造り方も日本に持ち込まれましたと考えられています。
(ちなみに昔の小学校の教科書では、弥生時代に稲作が始まったと書かれていますが、最近の研究では縄文時代の末期頃には日本に伝来し稲作が始まったと考えられています)
物々交換などで平和で穏やかな時代が長く続いた縄文時代に、稲作や水を畑や水田に送る灌漑技術、さらに様々な生活技術が入ることにより、集落により生活の格差が生じるようになります。 (講習会ではこの当時はどのような生活をしてたのかも話しますね)
稲作ができる土地があり水が豊富にある集落は、食料が手に入り易くなり生活が豊かになりますが、耕作地がない場所の集落では、今まで通り質素な生活をしなければなりません。
また道具を加工する技術レベルが上がると、集落の技術力の差によって、農地を作る道具や武器も変わってきます。
そしてこの集落ごとの格差が、争いがの原因となりました。
貧しい集落が富める集落を襲う、もしくは生活豊な集落が今よりも更に大きくする為に、他の集落を襲い土地や水を奪いに行く戦いが起こりはじめます。
(弥生時代の遺跡では、矢尻が刺さったり、刀傷のついた骨が発掘されたりして、誰かにこの集落が襲われた遺跡が見つかっています。)
他の集落から自分たちがいつ襲われるか判らないから、日々の生活も心配と不安が続きます。
そこで集落が万が一外敵から攻められても侵入できないように、紀元前3世紀 今から3000年ぐらい前に見晴らしと水害に遭いにくい高い場所に集落を作り、その外周に壕を掘り簡単に侵入されない工夫をし、これが『環壕住宅』の始まりです。
縄文時代の「環壕住宅」としては、福岡県の「板付遺跡」や北海道に「静川遺跡」が知られています。
これらの遺跡では、数百名が住んでいる大規模な集落ではなく、100人以下だろう と考えられています。
残念ながらこれらの遺跡は発掘後に遺跡保存のため、再び地中に埋められてしまい、どのような姿だったのかを今は見ることができません。
縄文時代から弥生時代に入ると、日本(この当時は日本という概念はありませんが…)全土に農耕技術が広がり、青銅や鉄、陶器や道具の技術も進化していきます。
こうなると集落ごとの貧富の差もより一層広がることにより、この中で集落をまとめる力を持つ特定の支配者が生まれ、集落から 村・国へ変化していきます。
それによって「環濠集落」も今までとは比べものにならないくらい大きくなり、それに伴い防御する設備や工夫も進化してきます。
環濠集落として弥生時代で有名な遺跡として知られているのは、2500年ほど前に集落ができ、弥生時代中期から末期にかけて現在見れる形になったと考えられているのが佐賀県にある「吉野ヶ里遺跡」です。
たかが古代人の住居跡でしょ‥と舐めてはいけません!
端から端まで見ようとすると、とんでもない広さだから想像以上に時間がかかるはずです。
総面積で117ヘクタール、最盛期には外周が2500mも続き、その壕の深さは場所によって違いますが、深さが3〜4m、長さは5〜7mもあるからです。 (1ヘクタールは100×100mの大きさです。)
そして初期の環濠集落とは比べものにならないくらい広大な場所に、多数の住居の跡が見つかり、同時に敷地内で太い柱跡も発掘され、城で言う「櫓」いわゆる倉庫兼見張り台まであり、復元された櫓は吉野ヶ里遺跡のシンボルともなっています。
最盛期、この集落の外周には大きな「壕」を掘り、さらに外周に敵から侵入されない為の「木の柵」を設置、そして人の移動を阻む「乱杭」や「逆茂木」まで設置され、パッと見ると戦国期のお城と基本は変わらない造りになっているのです。
もちろん日本城郭協会が出版する「日本100名城」にもこの「吉野ヶ里遺跡」は記載されています。
数年にもわたる大規模な発掘から、この集落の中だけで1000〜1200人が住んでいたと考えられ、この集落を中心として5000人以上の人々が住んでいたと考えられています。
そしてこの集落の中には、他の住居跡と違う、柵に囲われた住居跡や青銅器を作っていたと思われる場所が見つかっているので、王様や身分が高い人が住み、近代のお城で言う、政治の中心であった「本丸御殿」の様な場所だと考えられています。
しかし700年ほど続いたこの大規模な集落は時代とともに変化し続けましたが、何らかの理由により衰退し、1986年から発掘されるまで長きにわたり地中に埋もれていました。
吉野ヶ里遺跡の様に衰退した場所もある一方で、防衛に優れた集落のあり方はその後も長く続き、令和の時代になってもそこに人が住み続け、昔の面影を見て感じる事ができる場所もあります。
聖徳太子が訪問し、水に困っていたこの集落に水の手配をし、『古事記』作成の中心人物「稗田阿礼(ひえだのあれ)」の出身地とも言われている、奈良県「稗田(ひえだ)環濠集落」です。
ここは室町時代に今の形になったと言われていますが、弥生時代には集落ができ、平安・室町・江戸時代を経ても、今もなお狭い路地や町の外周のお堀が残っているので、環壕のあり方がよく判ります。
奈良の古いお寺も魅力がありますが、こちらも長い歴史を積み重ねてきた 場所 としてぜひ知っておいてくださいね。
海外の人から、日本人は日本お歴史や文化を知らないと言われていますが、海外で1000年以上の歴史が続く国ってそうはありません。
歴史の中には必ず争いがあり、争いの中に防衛拠点ができ、それが「お城」となっていく、そのお城を中心に文化や技術が進歩していくことが多々あります。
歴史を学ぶと、今まで見えなかったものが見えてきたりしますし、海外の人から日本人は自国の文化を知らない‥と馬鹿にされることもありません。
この機会に一緒に学んでいきましょう!
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プロフィール
お城探検家&キャリアコンサルタント
西野慎祐(にしのしんすけ)大学では社会福祉を学び、特に児童福祉 母子家庭の研究をしていました。
卒業後は、三菱自動車ディーラーの法人担当営業として働き、途中で人事総務、営業支援部門も経験しました。
販売店時代に、三菱商事の開発建設部門に7年ほど出向、建築と鉄の2つの商社の部門に席があり、商社の各部署との調整及び三菱車の拡販を行っていました。
出向後、販売店に戻りましたが、相次ぐメーカーのリコールにより販売会社が疲弊し、会社環境が悪化する中で心的プレッシャーから会社を退社しました。
退社後、ご縁があって岐阜大学 歯科医学部 再生医療の研究員として1年ほど働きました。
契約満了後は、厚生労働省の資格である、「キャリアコンサルタント」の資格を取得と不動産関係の資格を一部持ちながら、細々と仕事をしています。
趣味で山城や喫茶店、街巡りを行い、その中で各々が持つ歴史に興味を持ち、観光ガイドやイベント等も企画しています。
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