目次
はじめに
お城探検家西野慎祐です。
お城はいつからあったのでしょうの続き No2 です。
前回の復習
前回のブログで、お城の原型について話しました。
紀元前の縄文時代に環濠集落という形で原型ができ、生活レベルが上がったことと武器の進化により集落や身分の格差が生じ、そこから人や集落ごとの争いが頻繁に起こるようになります。
他集落からの襲撃から、自分たちの集落への侵入を防ぐための壕や柵を創るようになり、それが時代の経過と共に壕や柵、その他の防御施設もより強化され、大規模な環壕集落ができたと、前回のブログでお伝えしました。
縄文時代に集落ができ、弥生時代には、集落が集まり大きくなっていき、「吉野ヶ里遺跡」に代表される大きな規模の「環壕集落」ができ、それがお城の原型だと考えられてきました。
そして、弥生時代から古墳時代に進んできますと、農業や灌漑技術の普及から人の営みがこれまでとは違う変化したと考えられています。
そのうち、集落の中から指導力や統制力、武力や財力に優れた人物が集落や集落周辺の地域を統治・支配するようになり、この支配する人物がいわゆる「豪族」となっていくのです。
豪族
豪族の長になると、武装した兵(私兵)をもち、自分が死んだ後に権力や偉大さを見せつける為といわれる、大きなお墓「古墳」を作り、同時に自分の居場所を特別な空間とする『豪族居館』も造りました。
豪族居館
それまで、環濠集落の中にも、リーダーの住居周りに堀や柵を作っていたのですが、時代とともにリーダー(豪族)の周りだけ防御を厚くする『豪族住居』ができ、他の住人は堀も柵もないただの集落で生活するスタイルも変わりました。
この『豪族居館』では、豪族が住む住居を中心に、身内や配下を住まわす為の住居(竪穴式住居)や食糧や武器を保管する倉庫を造り、さらには「祭祀」を行うための広場や設備(水を送る為の道管など)も造られました。
この当時、一般庶民が勝手に祭祀をできない時代でしたから、おそらく、祭祀も支配者にとって、支配下の人々に権力と特別感を見せつける為の大事な儀式だったのでしょう。
さらに、居住や倉庫のある場所とは別で、張り出した独立したスペースを作り、全体を大きな壕で取り囲みました。
この独立した場所は、一般人の立ち入りを制限する為の場所説や、庶民とは違うのだと見せつける場所説、敵の侵入を防ぐため説など様々なことが言われていますが、どれが正しいかは判りません。
豪族居館の中には、防衛や力の象徴、遠くを見渡すための「物見櫓・見張台」が造られている事例も多々あることが発掘により判っています。
色々書きましたが、この「豪族住居」と「環濠集落」の大きな違いをザックリ判りやすく言うと、集落全体を壕と柵で囲むのか、個人の家を壕と柵で囲むのかの違いです。
吉野ケ里遺跡と豪族居館の大きさ
〜ちょっと脇道に逸れます〜
大きさを数字で表すと、吉野ヶ里遺跡の大きさが一番大きかった時で40ヘクタール以上あったと言われています。
東京ドームがだいたい4.7ヘクタールですからドーム8.5個分、一般的な畳 中京間(ちゅうきょうま1.65㎡)だと、1ヘクタール約6000畳 40ヘクタールで約24万畳、地域性がありますから、ついでに書いておくと、関東で使われる小さめの畳である江戸間(えどま 1.54㎡)畳で換算すると1ヘクタールが約6500畳、換算すると 40ヘクタールで 約26万畳の広さ‥
畳が26万畳広がる原野なんて想像ができませんけどね(笑)
くどい! と思われるかもしれませんが、坪数で言うと1ヘクタールで約3000坪。現代における日本の平均的な家の坪数は35〜40坪ですから、1軒の敷地が40坪と計算すると、吉野ヶ里遺跡の敷地に3000軒の家が建てられている感じです。
それに対して『豪族居館』は地域によって大きさは違いますが、小さいもので0.7ヘクタール、大きいもので2ヘクタール前後ですから東京ドームの半分くらい、中京間で言う12000畳程度で大きさがかなり違います。
何にでも使える単位
何にでも使える単位の例えを記載しておきます。
1ヘクタール → 100m×100m ( 10000㎡(へいほうめーとる) )
A4用紙 → 0.062㎡ (1ヘクタールで約161000枚必要)
1坪 → 3.3㎡ (1ヘクタールが約3000坪 A4約53枚分)
サッカーコート → 7140㎡ (0.71ヘクタール 約2160坪)
楽天球場 → 2.1ヘクタール (サッカーコート約2.9面分で 収容人数 約3万人)
東京ドーム → 4.7ヘクタール (サッカーコート役6.6面分で 収容人数 約5万人)
姫路城 → 約230ヘクタール( 70万7千坪 東京ドーム49個分)
江戸城内郭 → 約425ヘクタール( 東京ドーム90個分 )
色々なものと比較する時に、大きさがよりイメージしやすいので、知っておくと便利です。
〜本題に戻しましょう!〜
豪族居館の発生で、ここで支配する側と支配される側との境がより明確に分けられたと私は考えています。
豪族居館の有名な遺跡
有名な遺跡を書いておきますと群馬県 高崎市 三ツ寺で上越新幹線の工事中に発見された『三ツ寺豪族住居』です。発掘後に遺跡保護のために埋められてしまい、今は見る事ができませんが以下のサイトは大変判りやすいものなので紹介しておきます。
(関東歴史旅行情報 群馬のページから参照)
http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/kofun.kodaiiseki/gunnma/mituteraiseki/mituteraiseki.html
土塁や柵、濠について
この豪族居館は全国で見られるようになりますが、地域の特性によって大きさや構造はまちまちですが、上でも示した通り、住居や倉庫、祭祀場の周りを土塁や柵で囲み、外側は濠で取り囲まれている形は全国共通しています。
いくつかの環壕居館では壕の盛り上げた斜面に、土の崩れを抑えるためや特別な場所と判る様に多くの石で飾られている場所も見つかっています。
これらは古墳に敷き詰められている「葺石(ふきいし)」と同じものであり、石垣と呼べるレベルのものではありませんが、多くの労力が使わられたのは間違いありません。
この様な姿はまさに戦国初期から中期のお城に近いと感じますし、運搬や穴を掘る道具の少ないこの時代に、よくぞこのような土木工事をしたものだと感動すらします。
しかしなぜ環濠集落からこのような変化が起こったのか、明確に判っている訳ではありませんから歴史は面白いのですね。
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